あるいは多分、これもいつもの日々。 庭先には色とりどりの花が咲き、それに誘われるようにその周りでは優雅に蝶が舞う。 淡い青空の下ではそんな平和な光景が広がっている。 うららかな春。 ここぞとばかりに草木は陽光の恩恵に預かろうと精一杯葉を伸ばし太陽光線をその身に浴びて緑色に輝く。 葉が集まってキラキラと光るその姿は、まるで緑色の宝石の波のようで眩しい。 その宝石をたたえるかのように鳥たちも楽しげにさえずっている。 冬を過ぎ、待ち焦がれた季節の到来に、植物はおろか動物達も楽しげなようだ。 それは人間も同じようで、ここさざなみ寮でも大きな物体がのんびりと日の当たる室内に横たわっていた。 「ぬへーん……」 訳のわからない寝言を呟きながらお尻をポリポリと掻く姿は思いっきりおっさんくさい。 しかも背丈が異常に大きいので、のっさりと横たわる姿は、まるでトドのようだ。 もちろんこの場所で優雅に寝ているのはおっさんでもトドでもない。 れっきとした、ここさざなみ寮の管理人である槙原耕介その人だ。 そんな管理人が真っ昼間からよく日の当たる場所に陣取り、のんびりごろごろ、なんというか優雅な姿である。 しかし片手にはたきを持っているところを見ると、どうやら掃除の途中に寝てしまったようだ。 きっとこの春の陽気にやられてしまったのだろう。 普段勤勉に寮の仕事をこなす耕介にとっても、春の始まりというのは非常に厄介なのであろう。 「おっはろーございまーす……およ?」 おはようございますとハローを混ぜこぜにした挨拶をして、住人の一人である椎名ゆうひが室内に入ってくる。 そして眠りこけている耕介の姿を見つけ、軽やかな足取りで室内に入って来たゆうひの動きが止まった。 「ふふっ…………」 にやり。 そうとしか形容できない笑みを浮かべて、ゆうひは耕介の側にそっと近づいていく。 抜き足、差し足、忍び足。 ゆっくりと起こさないように慎重に歩く。 そんなゆうひを窓からの風が撫で、ライトブラウンの髪がふわりと風に揺れる。 「んー、気持ちの良い風やねぇ」 髪を軽く押さえて窓の外を見る。 柔らかな陽射しが赤字覚悟の大セールとばかりに降り注いでいた。 こんな陽射しに照らされてしまったら、思わず眠りたくなる気持ちもわかるというものだ。 そう思って、ゆうひは陽射しに目を細める。 「でもな耕介くん……うちの前で寝るのはちょう迂闊やったな」 ごそごそとゆうひは懐から一本のマジックを取り出す。 それからコホンと一つ咳払いをして大きく息を吸う。 「ら〜く〜が〜き〜マジック〜」 某ネコ型ロボットの声真似でジャジャジャジャン、とばかりにマジックを頭上に掲げる。 ちなみに油性の黒。 そんなものどこに持っていたのかは内緒だ。 というか、そういうことを気にする奴は大物にはなれないのだ。 そんなことを思いながら、ゆうひはマジックのキャップを外す。 キュポンッ。 小気味の良い音がしてキャップが外れ、つんとしたインクの匂いが鼻に届く。 「うふ、うふふふふ……」 しかし、すでにイッちゃってるゆうひはそんなことは気にしない。 すでに頭の中は、どんな落書きをしてやろうかというので一杯のようだ。 理想はなんか恥ずかしいやつ。 しかし下ネタなのではなく、大阪出身らしい捻りと旨みが良い感じにミックスされた言葉だ。 こういうところ、上方生まれの上方育ちはこだわってしまう。 大阪に生まれた女やさかい……もとい、お笑いの街生まれのプライドだ。 「ふーむ……額に肉はありきたりやし」 べたべただった。 「いや、ここは意表をついて中の方が良いかもしれへん」 意表でもなんでもない。 額に肉と中は全国の小〜高くらいまでのお約束中のお約束だ。 ゆうひは考えすぎて結局ありきたりなものしか浮かばない状態になっている。 若手芸人が良く陥るパターンだ。 「何をしているのだ?」 「きゃわっ……わぷぷ」 額に字を書こうとした直前、後から声をかけられてしまい、ゆうひは飛び上がりそうなほどに驚く。 しかしすぐに口を自分の手で押さえて声が漏れないようにすることに成功。 さすが悪戯に命をかける少女である。 「み、美緒ちゃん。驚かさんといてや……」 口元に手を当てて、自分を見上げる美緒にそう呟く。 寮内なので美緒の耳は出しっぱなしで尻尾も左右にゆらゆらと揺れている。 いわゆる、猫娘というか化け猫というか猫又というか。 とにかくさざなみ寮の破壊戦士というありがたくもないあだ名をもっている陣内美緒とはそういう少女だ。 「うん?」 ゆうひの横から美緒が前を覗き込む。 そこにはだらしなく寝ている耕介の姿。 相変わらずお尻をボリボリ掻いている。 その姿とゆうひの握っているマジックを見て、早速ピーンとくる美緒。 「にゃるほど♪」 こちらもにやりとしか形容できない悪戯っ子の笑み。 「お主も悪なのだ」 「いえいえ、お代官様ほどでは」 「というわけで、美緒もやるのだっ!!」 「おお、一緒にやろなー」 悪戯っ子コンビの誕生だった。 二人は耕介に気がつかれないようにそっと、しかしガッチリと固い握手を交わす。 「というわけで、額に肉と描くのだ」 「…………ううっ」 「どうかしたのか?」 「別に……」 自分と同じことを考えた美緒。 ゆうひはちょっとだけショックを受けてしまう。 「うちは美緒ちゃんレベルなんやろか?」 「うん?」 「や、なんでもないで〜。でもな美緒ちゃん、もうちょっとアグレッシブでソリッドの効いた奴の方が良いと思う」 「ソリッド?」 「おう、なんというかなー。こう切れ味鋭い面白さの中に芸術性が見え隠れしているものというか……」 「げ、ゲイ術っ? そ、それは凄いのだ。未知の世界なのだ」 「うん、男同士がこう絡み合って……って何を言わせるねんっ。そんなのうちにだって未知の世界やっ」 「おお、ノリツッコミ」 「本場もんやでっ。……ってだからそうやないっちゅーねん」 まとまりのない二人だった。 というか、ボケとボケではいつまで経っても話はまとまらないという典型だ。 「と、とりあえずや。美緒ちゃん?」 「なんなのだ?」 「額に肉はちょっとありきたりやな。何か違う方が良いと思う」 「ふむ……」 ゆうひの言葉に、美緒は腕を組んで考える。 うーんうーんと唸るたびに、美緒の尻尾が左右にふりふりと振れる。 「じゃぁ、額に中と書くのだっ!!」 「…………」 考えてでた答えも、これまたゆうひと一緒のものだった。 自分は美緒と本当に同レベルなのかと、ちょっぴり悲しくなる。 それでも、自分はきっと子供のように純粋な心の持ち主なのだとプラス思考で納得することにする。 「どうかしたのか?」 「えっ? いいや、なんでもないで〜」 「それなら、早速やるとするのだ。うふふふ……」 キラーンと美緒の目が光り、まるで獲物を狙う動物のような瞳になる。 こと悪戯にかけては、常に真剣な美緒だ。 一挙手一投足に至るまで、神経を張り巡らしゆっくりと耕介の額に近づいていく。 そんな美緒の後を、これまた楽しくてしょうがないといった表情でゆうひが続く。 前に小さいのと後に大きいのがニヤニヤしながら近づいてくる様は、さぞ見ていて気持ちの良いものではないだろう。 いくら整った顔をしている少女二人とはいえ、何かを企んでいるときの顔ほど本性が出るときはないのだから。 「美緒ちゃん美緒ちゃん。ちゃんとうちの書くところも残しておいてや」 「わかってるのだ」 コソコソと話し合う二人。 「おーい、耕介〜」 いよいよこれからというときに、廊下から耕介を呼ぶ声が聞こえて来た。 背筋が伸びるほどにピーンとなってびっくりする二人。 「耕介〜、いないの〜?」 足音は段々とこちらに近づいてくる。 「うわわわっ!?」 「な、なんなのだ?」 脱兎のごとく、慌てて耕介から離れる二人。 一瞬のうちに美緒はテーブルの下に、ゆうひはソファーの上に何事もなかったかのように陣取る。 さすがは慣れている二人、逃げ方にそつがない。 そして二人で声のした方向に注意を向けていると、同じくさざなみ寮の住人である仁村真雪が耕介の名を呼びながら入って来たところだった。 「おーい、耕介って……寝てるのか……」 床で寝ている耕介を発見して、真雪がそちらを向く。 「そうなんや、さっきからずっと寝とるんよ」 手近にあった雑誌、週刊熱帯魚(愛さんの愛読誌)を逆さに持ちながら返事をするゆうひ。 それを見て、真雪は不思議そうな表情を浮かべる。 真雪の視線に、ゆうひは思わず背中に嫌な汗をかいてしまう。 「なにしてんだ?」 「み、みてわからんかな? 読書や」 「それはわかるんだけどな、逆だと読みづらくないか?」 「あ……」 慌てて雑誌を元に戻す。 その様子を、真雪は漫画家特有ともいえる観察眼で見ている。 いわゆる、ネタになりそうなものは決して逃がさないという魔眼だ。 ちょっぴり、いやかなり居心地が悪いゆうひ。 「ゆうひ」 「はっ、はいな?」 「お前等、何か企んでるだろ?」 「へっ? そ、そんなことは全然あれへんよー」 そこまで言って、ゆうひはふと真雪の言葉を思い出す。 真雪はお前等と言った。 お前等というのは、当然のことながら一人を指す言葉ではなく複数形であって、ということは……。 真雪の顔を覗き込む。 何もかもが看破されていそうな、まるで悪魔のような笑顔だった。 「そこに猫も隠れてるだろ?」 「あうっ」 猫とは真雪が美緒を呼ぶ時の愛称のようなものだ。 もちろんそのことを知っている二人は、真雪の言葉に驚く。 「ほら、何もしないからでて来い」 「あうー」 真雪の言葉に、美緒がテーブルの下から這い出してくる。 「な、なんでわかったのだー」 「なんとなくだ」 真雪は自信満々に胸を張る。 それと同時にぷるんと大きな胸が揺れる様は、なんというか反論の余地が無いほどに説得力がある気がする。 そんなことを思う、目下バストアップ計画進行中のゆうひだった。 「むぅ、せっかく耕介に色々しようと思っていたのに見つかってしまったのだ……」 ぺたりと床に座ってふてくされる美緒。 尻尾も元気なさげにぺたりと下に垂れたままだ。 「ふっふっふっ」 ふてくされている美緒と、同じく残念がっているゆうひを尻目に、真雪は不敵な笑い声。 二人の視線が真雪に注がれる。 「誰が止めると思っているのかね、二人とも」 眼鏡の奥の瞳がキラーンと光る。 その瞬間、美緒とゆうひは理解する。 この人は仲間だ、と。 「仲間や」 「仲間なのだ」 「もちろんだとも、こんな面白い事を放っておけるわけないだろう」 ガシッと手を重ね合う三人。 悪戯娘トリオの誕生だった。 耕介はそんな少女達の結成式を見ることもなく、未だに深い眠りに落ちていた。 これから地獄のような儀式が始まるとも知らずに……。 「しっかし、本当に良く寝てるよなぁ」 マジマジと耕介の顔を見る真雪。 自分のすぐ上に真雪の顔があるというのに、耕介は起きる素振りも見せない。 心地よさそうな寝息を規則的に吐き出しているだけだ。 最初は警戒していた三人だったが、そう簡単には起きないと知るや、その動きも大胆なものになっている。 緊張もどこへやら、今では小声だけれども普通に話さえしていた。 「ふむ……」 寝ている耕介を見ながら、なにやら考え込んでる真雪。 それを期待しながら眺めているゆうひと美緒。 二人とも、真雪のことだからきっと何かとんでもないことをしてくれると期待に胸を膨らませている。 そんな二人の期待に答えるかのように、真雪は自分のズボンのポケットに手を入れて何かを取り出す。 「取材用カメラ〜」 例の口調だった。 どうやらこの寮では、何かを出すときは某ネコ型ロボットの真似をするのがお約束のようだった。 「おおっ」 「ハイテクな悪戯機械なのだ〜」 文明の利器に思わず声を上げる二人。 これで落書きした顔の写真を撮れば、半永久的に笑い話にできる。 いやがうえにも期待は高まる。 「というわけで、美緒にゆうひ。悪戯書き♪」 ファインダーを覗いている真雪の口が吊り上がる。 悪戯決行の合図だ。 「らじゃった」 「了解や」 手に手にマジックを持ちながら(しつこいようだが油性)耕介に詰め寄っていく。 そんな二人の気配に気がつかずに、耕介は眠りこけている。 「そりゃっ。一番乗りや〜♪」 カキカキカキ……。 何の躊躇もなく、耕介の額にマジックを走らせる。 結局ゆうひは額に肉と書いた。 「むむっ、あたしも負けないのだ〜」 カキカキカキ……。 美緒は往年の泥棒メイクである口ひげと繋がり眉毛。 「いいぞいいぞ〜♪ 激写激写」 パシャパシャパシャ。 そしてそれを名カメラマンばりに色んな角度から撮影していく真雪。 一種異様な空気が流れているさざなみ寮のリビング。 そんな中、テンション高めで動き回る三人は本当に敵に回したら嫌なトリオだった。 「うし、まぁこんなものやな」 額の汗を拭いながら満足そうに呟くゆうひ。 その隣では、同じように美緒が満足そうに耕介を見ている。 その姿は、まるで一仕事終えた職人のようだ。 ちなみに耕介は額に肉と書かれ、眉毛は繋がり髭は口にそって円を描くように丸い泥棒スタイル。 そして、とどめとばかりに閉じたまぶたにはリアルな目が描かれていた。 ちなみに、草薙まゆこ渾身の一作。 実際それは寒気がするほどリアルな出来だった。 しかしいくらリアルな出来だとはいえ、耕介のような男に少女漫画的キラキラ目は似合わない。 似合わないどころか顔の落書きも手伝って違和感バリバリだ。 この写真が公開されてしまったら、きっと耕介は生きてはいけないだろう。 比喩表現でもなんでもなく、実際それくらいの破壊力は充分にありそうだった。 「ありがとな、ゆうひに猫」 「いえいえ、こちらこそ真雪さんの画力を充分に見せてもらったわ」 「うむ、さすがは漫画家なのだー」 「ふふふふ、当然だよキミ達。あたしは今度アニメ化もされる漫画の原作者様だからなぁ」 はっはっはと胸を張って高笑い。 それにつられるように、ゆうひと美緒も楽しそうに笑う。 「あらあら、まあまあ、楽しそうですね」 頭上からそんな声が聞こえて、一斉にみんながそちらを振り向く。 振り向いた先には、天井から腰から上の上半身を出してこちらを伺っている女性の姿。 普通の人たちなら絶叫ものの光景ではあるが、ここさざなみ寮ではありふれた光景なので誰も驚かない。 「おお、十六夜さん。こんにちは」 気軽に挨拶を交わす。 「こんにちは、ゆうひ様」 十六夜と呼ばれたぶらさがっている女性は柔らかく微笑むと逆さまのまま頭を下げる。 なんだかちょっと妙な光景だ。 十六夜は正確には人間ではない。 『真道破魔 神咲一灯 霊剣十六夜』という名の剣なのだが、その剣に宿る魂が具現化した姿である。 幽霊に似たようなものなのだが、つまりはそういうことをしても不思議じゃない女性だったりするのだ。 もちろんそんなことを知っているのは寮の住人と僅かな人たちだけなので、お客さんが来た時などは大人しく剣の中にいる。 それが楽しげな声につられたのか、不意に顔を出したのだ。 「何か御用ですか?」 「はい。耕介さまに御用がありまして……」 するり、と天井から音もなく抜け出して、床にふわりと着地する。 そしてそのまま耕介の方へと歩を進める。 「ええっ? こ、耕介くんにですか?」 「はい?」 ゆうひの驚いた声に十六夜は立ち止まり、光をともさない瞳でゆうひを見る。 「それがなにか?」 「こーすけは寝ているのだ」 「ええ、存じております」 「そ、そうなんですか?」 「はい、先ほどまで一緒に掃除をしておりましたもので……」 十六夜の言葉を聞いた三人の上にクエスチョンマークが浮かぶ。 「十六夜さん、良かったら説明してくれる?」 「はい。一緒に寮内の掃除をしていたのですが、耕介さまはお疲れのようだったので、お香を焚いてリラックスさせようとしたのですが……」 そう言った十六夜の顔に暗い影が落ちる。 「どうにも効き過ぎてしまったらしく、耕介さまは眠るように倒れてしまわれまして」 「な、なるほど……」 「それではたきを持ったままなんやね」 「ええ。何とかしようと思い薫を呼びに行っていたのですが……」 「下から声が聞こえたから何かあったと思ったわけだ」 真雪の言葉に頷く。 意外な事実を聞いて固まってしまう真雪たち。 まさかそんなことになっているとは知らずに、これでもかとばかり悪戯をしてしまった。 気まずい沈黙と重い空気が辺りを支配している。 「あの、みなさま方はどうして?」 「えっ? えっと……」 「あ〜」 「あたしたちもこーすけを起こそうとしてたのだ」 「うええっ?」 「な、なぬっ?」 驚くゆうひと真雪。 「まあ、そうなのですか」 「うむ」 そんな二人を気にも止めずに美緒は言葉を続ける。 「用事があったんだけど、起きないからどうしようかと思っていたのだ」 「まぁ、それは……私のせいで申しわけありません」 心底申し訳無さそうに、十六夜は頭を下げる。 「こらっ、ちょっとバカ猫っ」 真雪が美緒の耳を引っ張り自分のところへと寄せる。 「いたいいたいー。な、なにをするのだー」 「何をするのじゃないだろっ。どうしてそんな嘘をつくんだ」 「そうやで美緒ちゃん。ここは素直に謝るのがええと思う」 「大丈夫なのだ」 痛む耳をピコピコ動かしながら二人を見る。 「黙っていれば暫くは絶対にバレないのだ。というわけで逃げるのだっ!!」 まだいまいち善悪がわかっていない子供ゆえに言える言葉。 しかし、その言葉は結構な威力を持っていた。 それを肯定するかのように二人の動きが止まる。 「ど、どう思う?」 「どう思うって何がや?」 「猫の言うとおり逃げるならいまだろ。神咲が来たら厄介なことになるのは目に見えてるじゃないか」 「それはそうやね」 二人の脳裏に烈火の如くお怒りになる神咲薫の姿が浮かぶ。 きっと『お二人は年上なのですから陣内を止める立場でしょう? それが一緒になってなんですか』なんて言われるに決まっている。 とても正論なのだが、人間正論を言われてしまうと腹が立つものだったりするので厄介なのだ。 「あたしは猫に一票なんだけど」 「じゃ、じゃあうちも……」 「それじゃ、さっさと逃げるのだ」 「逃げる?」 「うあっ……」 「か、薫ちゃん……」 逃げ出そうとしたドアの前に、書物を抱えた薫の姿。 脱出には一歩遅かったようだ。 「薫。何かわかったのですか?」 「ああ、十六夜が焚いたお香はちょっと厄介なもののようだ……」 傍らの書物をめくりながら耕介の前に歩いていく。 「ほらここ。どうやら耕介さんが寝てしまった原因……は…………」 耕介の方を見てさっきまでのキビキビした動きがピタリと止まる薫。 「どうかしたのですか薫?」 事情を知らない十六夜がキョトンとした顔で尋ねる。 「や、やばい……逃げろ」 「待ってください。これはどういうことか説明してもらいましょうか」 低い、ドスの効いた声。 薫が怒っている証拠だ。 「いや、あのな薫ちゃん。これには深いわけが……」 「そう。そうなんだよ」 「だからそんなに怖い顔をするのは勘弁して欲しいのだ〜」 三人は逃げるのを諦めて、事の顛末を薫に話す。 こめかみをひきつらせながらも、その話に耳を傾ける薫。 傍目にも怒っているのがわかる。 そんなピリピリとした空気は十六夜にも伝わっていた。 「陣内はともかく、真雪さんと椎名さんまで一緒になってなんですか」 「はい……」 「お二人は年上なのですから陣内を止める立場でしょうに?」 思ったとおりのお説教にうんざりしてしまう三人。 「聞いているのですか?」 「はい」 「はい」 「へーい」 「真雪さんっ!!」 「薫。もうそれくらいで」 「でも」 「それよりも、いまは耕介さまの方が……」 十六夜の言葉に渋々お説教を止める薫。 怒りが去ったので、やっと三人の身体の緊張が解ける。 だが、さすがにもう逃げるわけにもいかずにその場にとどまっている。 「それで何がわかったのですか」 「ああ、どうやらあれはリラックスさせる為のお香ではなくて、相手を深い睡眠へと落としてしまう呪術に使うお香だったんだ」 「じゅ、呪術……」 ゆうひの顔に驚きの表情が浮かぶ。 「そんなあぶねーもん、なんで神咲が持ってるんだ」 「それは……」 「神咲の実家に帰った折に間違えて持って来てしまったようなのです。見た目は普通のお香となんら変わりがなかったもので……」 「うちの不注意でした」 「や、それはもう過ぎたことだからえーんやけれど、耕介くんはどうなるんや? ちゃんと目覚めるんやろな?」 「はい、この書物に書いてあるとおりのことをすれば目覚めるはずです」 そういって、薫は傍らから一冊の古びた書物を出す。 「だったら、早くなんとかするのだ〜」 「それが……」 言いよどむ薫。 「どうしたんだ?」 「まさかマンドラゴラとかヤモリの尻尾とかいう特殊なものがいるとか言うんじゃないやろな」 そうなったら集めることは困難だ。 というか絶対に無理だろう。 「それはありません。なんというか、ある意味簡単ではあるのですが……それ以上になんというか……その……」 「あーもう貸してみろっ」 要領を得ない薫から、真雪はひったくるようにして書物を奪い取る。 そしてそこに書かれている方法を読んで、その動きが止まる。 「ど、どうしたのだ? 早く読むのだー」 「ま、真雪さん?」 「耕介を目覚めさせるには……乙女の接吻が必要らしい……」 信じられないと言った表情で呟くように口を開く。 「な、なんやてっ!?」 「接吻ってなんなのだ?」 「接吻とは今の言葉でキスのことですよね?」 十六夜の言葉に薫、真雪、ゆうひが頷く。 「なるほど、それなら簡単なのだ。誰かこーすけにキスをするのだ」 「…………」 「…………」 「…………」 「どうしたのだ?」 自分の言葉に誰も反応を示してくれずに、美緒はわけのわからない表情をする。 いつもは真っ先に口を開いてくるゆうひでさえも、今は黙りこくって複雑な顔をしている。 他の三人も複雑な顔で、誰も美緒と目を合わせようともしない。 「どーしたのだー?」 「美緒さま……」 わけがわからずに騒ぐ美緒に、一番年上の十六夜が話し掛ける。 十六夜が話し掛けたのを見てほっとする面々。 「その、なんというか、皆様そういうことはなかなか出来ないのですよ」 「何故なのだ?」 「何故と言われましても……」 「説明してくれないとわからないのだ」 「こ、困りました……」 口元を袖で押さえながら、上手く説明する事が出来ずに泣きそうな顔になる十六夜。 それでも美緒は、なおも十六夜に詰め寄っている。 「あーもう、うるさい猫っ。キスならお前がしろっ」 「おお、それはナイスアイデアや」 美緒なら例え耕介にキスをしても、その後の事はあまり変わりはしないだろう。 後でキスをされたと耕介が知ったとしても、きっと普通に流せる範囲の出来事だ。 なにせ美緒はまだ子供なのだから色んな意味でセーフだし、美緒なら自分も許せる。 脳内でそんな答えを出したゆうひは、すぐさま真雪の意見に賛成する。 「あ、あたしが?」 「うん」 「うん」 こくこく、と二人同時に頷く真雪とゆうひ。 成り行きを見守っているのか、薫は何も言ってこない。 「うーん……。まっ、別に良いのだ」 耕介のことは別段嫌いでもない。 むしろ好きな方なので、美緒はあっさりと了承する。 「あ、でもやっぱり嫌なのだ〜」 「なんでだ?」 「こんな変な顔の人にキスはしたくないのだ〜」 「そ、それは確かに」 美緒の言葉に、ゆうひは納得したような声を出す。 人助けの為とはいえ、確かに落書きだらけの顔にキスをしたいとは自分でも思わないだろう。 しかも落書きをしたのは自分なのだ。 それとキスをするというのは、なんだかマヌケな話である。 「それなら私が。私ならば目も見えませんし落書きというのも気にならないでしょうから」 「却下」 「それは駄目や」 「十六夜。それはいかん」 間髪いれずに三者三様の待ての声。 こうまで言われてしまったら、十六夜は素直に引き下がるしかない。 「うちとしては、やはり美緒ちゃんにキスしてもらった方がベストやと思う」 「あたしもそれに賛成だ」 「不本意ながら」 顔を突き合わせて話し合った三人は、結局美緒に託すことで同意する。 自分ではこんなシチュエーションではキスをしたくはないのだが、かといって他の人にされるのも何だか嫌。 ましてやそれを見せられるのなんてさらに嫌。 そんな風に乙女心が爆発中の三人なのだ。 「でも、そうするとこの落書きを何とかしないといけませんね」 「そうやなぁ……」 耕介の顔の落書きを見ながらため息を吐く三人。 これを消さないことには、美緒は耕介にキスはしないという。 もし消すことができなければ、耕介にキスをするのは十六夜の役目になるだろう。 それはできれば阻止したい三人。 いくら霊剣とはいえ見た目は妙齢の女性なのだ。 「おおっ、そういえば」 何か良い事を思いついたのだろうか、真雪はポンと両手を合わせる。 「この前読んだ漫画にケチャップで落書きを消すような話があったような……」 「け、ケチャップやて?」 「そんな話、聞いたことがありませんが……」 真雪の言葉に、あからさまに不安げな表情をするゆうひと薫。 「そういえば、あたしもそんな話を読んだことがあるような、ないような?」 微妙に語尾を上げながら美緒も真雪に続く。 一人ならともかく、二人もいるとなると途端にそれは現実味を帯びてきたりする。 ただ、それが真雪と美緒というのが気にかかる。 「み、美緒ちゃんもか? う〜ん、薫ちゃんはどう思う?」 「そうですね、二人とも見たことがあるということでしたら試してみる価値はあると思うのですが……」 正直不安です。 その言葉を飲み込む薫。 そんなことを自分がわざわざ言わなくても、ゆうひの顔を見れば自分以外もそう思っているのがわかる。 「それじゃ、やってみるのだ〜」 二人の不安をよそに、美緒はいつの間に持って来たのかケチャップ片手に作業に入るところだった。 それから暫くして。 「…………落ちないのだ」 美緒の絶望的な声がリビングにこだまする。 「というか、見た目が益々悪化してねーかこれ?」 額に肉と書かれた、眉毛は繋がり髭は口にそって円を描くように丸い泥棒スタイル。 そして閉じたまぶたに描かれた少女漫画的キラキラ目。 それプラス、とどめとばかりに顔中にかかっているケチャップ。 まるで猟奇殺人事件の死体のようだ。 というかそのものに見える。 これにキスをしろといって出来るのは、余程の物好きか恋人くらいのものだろう。 というわけで、さすがの美緒も耕介にキスをする気は失せてしまっていた。 「八方塞がりか……」 「さすがにこれだと、うちもキスをする気は起きんわ……」 「何が違っていたのでしょうか……」 「何もかもだろーな」 完全に諦めたのか、真雪は床に座り込んでタバコの火をつける。 そして口から煙を吐きながら呟いた。 「しゃーない。十六夜さんにお願いしようか」 「ううっ。うち的にはそれにはちょう抵抗がー」 「そんなんあたしだってそうだ。でもな、できねーものはしょうがねーんだ」 「そう言われたらうちには何も言い返せん……」 「神咲もそれでいいな」 「はい……」 真雪の言葉に、薫も不承不承ながら頷くしかなかった。 ここで駄々を捏ねたところで、自分では何も出来ないのだから。 「というわけで十六夜さん、お願いします」 「わかりました」 十六夜は嫌な顔一つせずに頷くと、耕介の側へと近寄っていく。 そして耕介のケチャップまみれになった頬に、そっと手を伸ばして顔を持ち上げる。 「それでは……」 徐々に顔を近づけていく十六夜。 その姿をなんともいえない表情で見つめる、真雪、ゆうひ、薫。 十六夜の唇が耕介に触れようとした瞬間。 開いた窓から何かが耕介と十六夜の間へと割って入った。 「こ、小虎さま?」 割って入ったのはさざなみ寮に通う野良猫の小虎。 「にゃー♪」 小虎は驚く十六夜たちを尻目に、耕介の顔についたケチャップを舐めまわしている。 「う、うーーん……」 そんな声を上げて、耕介の顔が歪む。 「こ、耕介くん?」 「こーすけ?」 「耕介さんっ?」 慌てて耕介の周りに集まる面々。 小虎が耕介の顔を舐めていくたびに、くすぐったいのか、耕介は奇妙な声を上げている。 「なんだかくすぐったい……。って小虎……わぷっ……か、顔を舐めるな〜」 目が何度かしぱたいた後、耕介がそんな声と共に小虎を抱いて起き上がる。 「にゃ〜」 それでも耕介の顔を舐めようとする小虎に耕介は苦笑する。 「うわっ、こらっ。やめろって」 「おお、こーすけが起きたのだ」 「な、なんでや?」 「こ、これは……。もしかすると小虎のキスで……」 「そうか、小虎はメスだったっけか……」 タバコの灰を落としながら、呆然とした表情で真雪が呟く。 「つまりは、小虎も乙女やったということやね」 「何を綺麗にまとめてるんだ」 こつんとゆうひの頭を叩く。 「あいたっ」 「まっ、一応一件落着したことだし」 「したことだし?」 「あたしは逃げるのだ」 一番乗りとばかりに脱兎のごとく駆け出す美緒。 その後に真雪が続く。 そして最後にやっと合点がいったゆうひが駆け出す。 「逃げる前に耕介さんに謝らんねー」 慌ててその後を追いかける薫。 ドタドタドタと廊下を走る音が遠ざかって行く。 「な、なんだ?」 その姿を呆然と見送る耕介。 なんやかんやあったけれど、あるいは多分、これもいつもの日々。
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