――はじめに―― この物語は、「とらいあんぐるハート2 さざなみ女子寮」のヒロイン、 椎名ゆうひのシナリオを基に書いております。 その為、ゆうひシナリオをクリアしてからお読み頂けると幸いです。 では、つたない物語にしばし、お付き合い下さいませ。演奏会 〜前編〜 風芽丘コンサートホールの大ホール。 その最前列から五列後ろ、真ん中の席に槙原耕介と椎名ゆうひの姿を見る事が出来る。 ステージの上では、燕尾服を着た幾人もの男性やドレスをまとった女性達が、 会話を挟みながら楽器を調整している。 その誰もが、合間々々に緊張感を滲ませつつ、最高の音を出せるように〔その時〕を待っていた。 もう少しすれば彼等を統率する指揮者が現れ、演奏が始まる。 この年の海鳴フィルハーモニー管弦楽団による音楽イベント、 『クラシックフェスタ』 そのチケットを、耕介とゆうひの二人が手に入れたのは、以前福引きの当たりで手に入れたような偶然の結果ではなかった。 さざなみ寮に遊びに来た仁村知佳の親友、佐伯理恵が、リビングで寮の住人達と歓談している時に、 「あ、そうですわ。よろしければ、いかがでしょう?」 そう言って差し出したのが、クラシックフェスタのチケットだった。 ちなみに、理恵の父親はレコード会社の社長であり、こうした音楽イベントの後援、企画、運営もお手の物である。 ついでに言うと、クリステラ・ソングスクール、その校長たる〔世紀の歌姫〕ことティオレ・クリステラとも親交があるので、 理恵はゆうひともまた、親しくしていたわけであった。 「やー、おおきに、理恵ちゃーん」 音楽大好きっ娘のゆうひにとっては渡りに船、魚に水、鳥に翼、といったところだろうか。 ちょうどチケットは二枚あったが、ゆうひの、 「耕介くん」 鶴の一声で同行者、と言うよりパートナーは決定したのである。 時間が来た。 指揮者が悠然とした歩みで現れる。コンサートマスター(ヴァイオリンの首席奏者)と固く握手してから指揮台に上がり、 全員を立たせて聴衆の側に向き直った。そして、一礼。聴衆が万雷の拍手で称える。 「ルーデル先生、お元気そうで何よりや」 拍手が止んでからふっ、と洩れ出たゆうひの呟きを、耕介の耳は聞き逃さなかったが、今はそれを聞こうと思わなかった。 指揮者――クラウス・ルーデルが、それまで見せていた温和な笑顔をおもむろに引き締め、聴衆に背を向ける。 そして、タクトを持つ右手をすい、と上げた。 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲の、セレナード第十三番ト長調。 世間一般には『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の標題で知られている、有名な曲だ。 この曲はヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスといった、いわゆる弦楽パートによって演奏されるので、 ここでは管楽器や打楽器の出番はない。 耕介は、 (あっ、この曲聴き覚えがあるな) と思ったが、こういう時、意外と曲の名前までは出てこなかったりするものである。パンフレットを見直して、ようやく思い出した。 ヴァイオリンやヴィオラが、軽快に、時に優雅に、曲の主旋律を奏で、それをチェロやコントラバスが支えつつ、 よっつある楽章をすいすいと進めていく。 一番有名な出だしの部分こそ、多少の力みが出たものか少し強めに響いたものの、それは大して気になる程ではなかった。 指揮者と弦楽パートが正に一体となって、聴衆の為に音楽を奏でる事を楽しんでいる、それがよく分かる気がする。 時々、こつこつと腕に何かが当たるのに気付いて、耕介は横をちら、と見た。 「らん、らん、らーら、らーらーらーらーらーらら……」 ゆうひが曲に合わせて、かすかに歌いつつ身体を揺らしている。その為に、ゆうひの腕が耕介の腕に付いては離れしているのだ。 曲に意識が行っているので、目は閉じたまま。何故だか、自然と笑みがこぼれるのを、耕介は自覚していた。 曲の知名度を確立させた第一楽章、優雅に奏でられる第二、三楽章、コミカルかつスピーディな第四楽章。 それにしても、二百年以上も前にこれほどの曲を書いてのけたモーツァルトという作曲家は、何と凄い作曲家だったのだろうか。 ルーデルが、タクトをさっとひと振りして止めた。演奏が終了する。しかし、誰もそこで拍手をしない。 残響が遠ざかるのを確認したかのようにルーデルがタクトを置き、くるりと聴衆の側に向く。ここで、拍手が沸き起こる。 ルーデルは、今度は弦楽パートを立ち上がらせ、彼らにも拍手を、と両手を広げる。更に拍手が続く。 そして拍手がひと通り止むと指揮台を降りて一礼し、一旦舞台の袖に姿を消した。 袖から指揮者が現れると、拍手が沸く。 指揮台にルーデルが上がり、二曲目が始まった。 モーツァルトの時とは打って変わって、今度は緊張感を秘めた、ほの暗さすら漂う、しかし美しい序奏。 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲の、バレエ音楽『白鳥の湖』の抜粋であった。 俗に【 チャイコフスキー三大バレエ 】の一翼として有名なこの曲、全曲は四幕構成で、全てを演奏するとそれこそ二時間ほどもかかる大作だが、 ルーデルはこの演奏の為に、序奏の他、第一部から四部の、それぞれふたつずつの曲を抜き出している。 第一幕からは〔ワルツ〕と〔パ・ドゥ・ドゥ〕。 ワルツは弦楽器を主体に、音が大きく飛び跳ねるようでいて、しかし優雅さを失わない。 パ・ドゥ・ドゥは、十分ほどの間に曲の雰囲気がめまぐるしく変わっていく。 途中で入るヴァイオリンのソロ演奏は、まるで狂おしい心情を吐露するかのような、そんな印象がある。 そしてふたつとも最後には、これで曲そのものを終えても良いのではないか、と思うほどの、全ての楽器が 聴衆を正に、圧倒するかのような迫力をもって締めてみせた。 第二幕からは〔小さな白鳥の踊り〕と〔情景〕。作品の中でもこのふたつの曲ほど、有名なものはないだろう。 小さな白鳥の踊りは、管楽器と弦楽器が流麗にかけ合い、決して遅過ぎず早過ぎず、コミカルと言うより むしろ、可愛らしいような情感をかもし出していた。 ところがそれに続く情景は、一転してオーボエとハープの密やかなかけ合いが、一種異様な美しさを解き放ち、 次第に各パートが加わって聴衆を惹き込んで行く。 しかし、それは熱を帯びたもの陽的ではなくむしろ、 「夜の闇の領域に飲み込む」 ような、そんな背筋を震わせる類のものだ。耕介が何かの折にこの情景をちらりと聴いた印象は、 (ああ、綺麗な曲だな) といった程度だったが、実際の演奏を聴くととんでもない。 綺麗、というのが実は表面だけなのだというのを、まざまざと見せつけられた様な気分になってきた。思わず、 「……この曲って、こんな凄みのある曲だったのか……」 呟きが洩れ出てしまう。 そして、弦楽パートがあくまでも静かに帳を降ろしていった。 第三幕からは〔ハンガリーの踊り〕と〔スペインの踊り〕である。前者の方は最初の内、気だるさすら感じるような、 ゆったりとしたテンポで奏でられていく。 まるで先程の情景の後を微妙に引きずっているかのように。しかし、途中から急速にテンポを速めて盛り上がる。 気だるさを吹き飛ばし、明るいリズムが会場一杯に響き渡る。 「やー、踊り出しとうなるわ」 ゆうひが口にするほど、そのコントラストの違いは明瞭だった。 そして後者、スペインの踊りは、のっけから情熱的に始まる。聴いた耳にはフラメンコをイメージしたリズムの取り方だが、 管楽器と弦楽器、そこに加わる打楽器などのバランスは、やはりどこまでもフラメンコとは一線を画すものだ。 そして第四幕。〔情景〕から〔終曲〕に途切れなく続くパートだ。今度は弦楽器が、いっそ切迫した印象すら与えるアンサンブルで曲を始める。 指揮者によってある程度抑制されているが、それだからこそなのか、一度テンポが落とされても緊張感を失わないのだ。 高揚していく場面でもそれは変わらない。まるで、 (これから一体何が起きるのだろう?) という不安にも似た緊張感、と言えばいいだろうか。 終曲に入って、むしろ響きは悠然とすら聞こえてくる部分も出る。しかし、そこに第二幕の情景が回帰して来ると、また緊張感が増す。 それは繰り返し奏でられながら、圧倒的な響きに姿を変え、一気にクライマックスに持ち込んでいった。 オーケストラ全体が怒涛の如く響き渡らせる、美しくも戦慄的なバレエ音楽の、確かにフィナーレを飾るにふさわしい終曲。 演奏が終わっても、しばらく聴衆の誰もが動かなかった。いや、動けなかった。それは、オーケストラの響き、それを、 『創り出した指揮者』 の力に圧倒された証しでもある。 ようやく、誰かが控えめに拍手し出した。それを呼び水に、一斉に拍手が沸き起こった。耕介もゆうひも、惜しみない拍手を送る。 ルーデルがオーケストラのメンバー全員を起立させ、客席の側に向き一礼する。 そして、コンサートマスターと固く握手すると指揮台を降りて、再び袖に姿を消した。 幕間の休憩時間。 「いやぁ……実際の演奏って、こうも凄い迫力なんだなぁ」 「あはは、耕介くん、普段こうゆうの聴かへんもんなぁ」 「まぁ、なぁ。かなり前にふたりで行った時、同じ事は思ったんだけど……今回、改めて実感したよ」 「そやけど、たまにはええやろ?」 「ああ……あ、そうそう。ゆうひって、あの指揮者さん知ってるの?」 「うん。知っとるも何も、クリステラ・ソングスクールにも時々来てはったし、うち、ルーデル先生の指揮した曲、合唱で歌った事もあるんや」 「へえ、そうなんだ」 「最近、あんま会うてへんかったさかい、お身体でも崩されたかなー思うて、ちょう心配しとったんやけど……安心したわ」 以前、ゆうひと一緒に行った時にタクトを振っていた指揮者は、情熱的な身振りと大胆な解釈が売りだったそうだが、 今回の指揮者、クラウス・ルーデルはむしろ、堅実な指揮が売りなのだそうである。 しかし、堅実とは言いながらあれ程圧倒的な「白鳥の湖」を聴かせてくれたのだ。 「あ、耕介くん。そろそろ時間や」 「っと、そうだな。そろそろ戻ろう」 この次に演奏されるのは、ベートーヴェンの『田園』である。 それは、この「クラシックフェスタ」のメイン曲として設定された曲であった。 演奏会 〜前編〜 了