「我々は、演奏する曲に対して常に、真摯な態度で臨まなければなりません」

――クラウス・ルーデル――




















演奏会 〜後編〜
休憩時間が終わり、いよいよメインの曲だ。 聴衆に対しては常に温和な表情を見せる指揮者――クラウス・ルーデルだが、いざ曲に向かう時の表情は、まるで別人である。 そんなルーデルがメインに選んだ曲は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲の、交響曲第六番ヘ長調。 標題を『田園』という、まことに知らぬ人とてない有名な曲であった。 ベートーヴェンの交響曲で有名なものを挙げると、第三番『英雄』、第五番(標題〔運命〕で知られるが、こう呼んでいるのは日本だけである)、 第九番『合唱』、そして、この第六番『田園』といったところだろうか。 ルーデルがタクトを低めにかざし、ゆっくりと振り始める。 第一楽章。  「田舎に着いた時の愉快な気分」 と称される有名な楽章だ。この序奏を聴いた耕介は、思わず頷いた。 恐らく、早朝のラジオ番組を聴いた事のある人なら、皆一様に同じ事を思うだろう。 とあるラジオ番組の冒頭に流れるBGMこそが、正にこれなのだから。 特に力を入れるわけでもなく、あくまでもゆったりと奏でられるメインの旋律。 ただぼうっと聴いているだけではそのまま通り越してしまいがちだが、ちゃんと聴いていると、このメインの旋律は、 ある時はそのままで、ある時は形を変えながら反復される。 何の事はない、簡単に言ってしまうと、序奏を繰り返しながら演奏しているのだ、と言ってしまってもいい。こう言ってしまうと、 「何だ、つまらない」 こんな言葉で片付けられてしまいそうだが、それだけでは、例えば物語を読む時に、ただ文字の羅列を追っているだけの見方と大して変わりない。 同じ旋律でも、弦楽器と管楽器では響きが違う。 この違いが、音楽の表現を豊かにしているのだ。 弦楽を主体に、ちょっと管楽器が色を添える程度の、ある意味控えめにも取れそうな、海鳴フィルの演奏。それを創り出しているルーデルの指揮。 同じくくつろいで聴いているゆうひが、いつの間にやら耕介の手に自分の手を乗せている。 あくまでも柔和な表情を崩す事なしに、第一楽章は実にゆったりと締められた。 第二楽章「小川のほとり」もまた、ゆったりとくつろいだ雰囲気を崩さない。基本はあくまでも弦楽にある。 さらさらと流れる小川を表現する旋律をメインに、そのほとりをゆっくりと散策するかのような気分にさせられる、そんな演奏だ。 ここでもまた、メインの旋律が反復されたりしながら、くつろいだ雰囲気を演出している。 これほど平穏な旋律が繰り返されながらも、ちゃんと聴けば全然退屈してくる事がない。 (でも、これが真雪さんだったら、心地良さに居眠りするかもなぁ) そんな事を思って、耕介はふと含み笑いをした。 後半になると、ちょっと立ち止まり、物思いにふけって憂い顔になるような部分も出るが、それもほんの少しの事で、 またメインの旋律が回帰し、くつろいだ表情を取り戻す。 そして最後の部分、小鳥のさえずりを模した、といわれる箇所を管楽器が美しく、ゆっくりと奏で、静かに幕を降ろした。 第三楽章「田舎の人々の楽しい集い」から、第四楽章「雷と嵐」を経て、第五楽章「牧歌、嵐の後の喜びと感謝」に続く一連の演奏は、 休止を設ける事なく切れ目なしに続く。 第三楽章では、管楽器が主体となりながらも、決して大きくなり過ぎずに〔楽しい集い〕を表現していく。 これに弦楽器も加わって、まるで村人達の素朴な踊りか何かを見ているような気にさせられる。 このひとくだりが繰り返された後、すっ、と弦楽器が低音でざわめき始める。それは暗雲が近付く光景。 第四楽章『雷と嵐』の幕が開いた。 『田園』というひとつの曲の中で、この楽章が最も激しい動きをする。 物語の起承転結に当てはめると、正にここが〔転〕の部分なのである。 ここでは打楽器が雷を表現し、トランペットの咆哮が暴風を表現する。これに他の管楽器も加わって嵐の全体的な風景を表現する。 しかし、ここでもメインは弦楽器にある。 トランペットも、咆哮とは言え瞬間的な効果の為に音量を大きくしているだけで、嵐の通り過ぎて行く描写は、 あくまでも弦楽器によって描かれるのだ。 すぐに嵐は止み、まるで雲の合間から陽光が差し込むような音楽が奏でられる。 これが起承転結の結びにあたる、第五楽章「牧歌、嵐の後の喜びと感謝」なのである。 日本では『運命』の標題で知られる交響曲第五番は、精神的な苦悩を超えて歓喜に至る、というものであるが、『田園』では苦悩が自然の猛威に、 歓喜が陽光への感謝に置き換えられているのだ。ただ聴いただけでは分からない本質的な共通点、と言えるかもしれない。 ここでもまた、メインの旋律が繰り返し繰り返し奏でられながら、高らかに、しかし出過ぎる事なく、 あくまでも穏やかな表情のままでコーダへとつながっていく。 耕介もゆうひも、既に目を閉じて聴き入っている。そう、聴衆の誰もがこの幸福の中にたゆたっていた。 ベートーヴェンはこの曲を書いた時、既に聴力を失っていたというが、それでもこれほどの曲を作曲したのだ。 これは最早、才能云々で片付けられるレベルではない。 そして、まったく穏やかな歓喜の中、『田園』の演奏が終わった。 聴衆はしばらく動きを示さず、少し遅れて、一様に夢から覚めたかのようにどっと拍手を送った。ここに至って、 「ブラヴォー!!」 と叫ぶ者も出てくる。拍手は鳴り止まない。耕介もゆうひも、拍手をし続けた。 ルーデルは、やはりコンサートマスターを称え、次いでオーケストラメンバーの全員を起立させると、 聴衆の側に向き直り、両手を拡げた。そして深く一礼。 拍手が更に音量を増した。そこかしこから、ブラヴォーの声が聞こえてくる。 まるで声量自慢みたいな気がしたが、耕介は敢えて気にしない事にした。 ともあれ、これほど質の高い演奏はしばらく耳にしていなかったのである。 頭を上げたルーデルが、満足気に表情を綻ばせているのが、印象的であった。 終演後、耕介とゆうひは、ルーデルの楽屋を訪ねていた。 アポなしという事もあって、追い返されるのではないかと耕介は心配したがさにあらず、ルーデルは快く迎えてくれた。 ゆうひは何しろ「たましい語」なる独自の言語――なのだろうか? まぁ、気にするまい――で〔何とかしてしまう〕のだが、 流石に耕介はそうもいかなかった。 自然と通訳を介しての会話となるわけだが、この際少し、挨拶を交わした後のくつろいだ話の一部に耳を傾けてみよう。 「ルーデル先生、ほんまお疲れ様でした」 「ありがとう。しかし、まさか君が聴きに来ているとは思ってもみなかったよ」 「や、うちもですよー。先生が来るなんて、チケットもらうまで分からへんでしたし」 「ああ……ところで槙原君、と言ったね」 「え、あ、はい」 「今日の演奏だが、君はどのように聴いたかね?」 「はい。あまり上手くは言えないのですが  ……その、今日ほど集中してひとつの曲に耳を傾けたのは、ゆうひの歌以外ではものすごく久しぶりです」 「耕介くん……」 「はははは、そこまで身を入れて聴いてもらえたのは、何よりだ。  そうして聴いてくれる人がひとりでもいる限り、我々は全ての力をもって曲を奏でるのだよ」 「なるほど……」 「そして、それは〔うたうたい〕も変わらない……そうだね、フロイライン・椎名?」 「はい。ほんま、その通りです」 「自分の為、聴衆の為、そして大切な人の為……何かを成そうとする時に、大きくものを言うのは、何の飾りもない、その心なのだよ……」 ルーデルとの貴重な会話を終え、コンサートホールから外に出ると、もう辺りは夕暮れの光景に変わっていた。 もうすぐ陽が沈み、夜の帳が一面を覆う事だろう。 「はー、今日はええ日やったわー」 「そうだなぁ。それにしても、指揮者と話せるなんて思わなかったよ」 「そやけど、えらい堂々と話しとったやん、耕介くん」 「え、そうかぁ?」 手をつなぎ、徒然に歩く。 「なぁ、耕介くん?」 「ん?」 「これからどないする?」 「そうだなぁ……今日のみんなの晩飯は、愛さんが何か出前取ってくれるみたいだったから……」 「あ、そや……ちょう話題になっとるレストランあるんやけど、行ってみぃへん?」 「そうだなぁ。じゃあそこで晩飯食べて、後は久々に〔FOLX〕でも寄ろうか」 「決まりやね」 「よし、それじゃあ行こう」 「うん」 耕介が、ゆうひの手を握る力を少し、強くした。ゆうひもそれに応える。 別れ際に、ルーデルはドイツ語で、 「Auf Wiedersehen(ぜひ、また会いましょう)」 と言った後、今度はつたない日本語で、 「お幸せに」 そう言って二人を送り出してくれた。 いずれ、また逢う日。その時にはきっとゆうひと幸せになって、あの指揮者と再会したい、耕介は強くそう思った。 ゆうひもまた、耕介くんと幸せになって、また先生に再会したい、そう強く願って止まなかった。 二人が、寄り添って歩いて行く。 演奏会 〜後編〜 了

後記

いかがでしたでしょうか?
という言葉も何もあったもんじゃないですね(苦笑)。
元々は知人のサイトの2万ヒット突破記念、という事でリクエストを受けて書いたのですが
……当初の計算より長い作品になってしまった上に、何ともひねくれたネタ(苦笑)。
ともあれこの作品は、ゆうひシナリオのイベントのひとつ「クラシックフェスタ」を文章に再現してみようという、我ながら恐ろしく無謀な試みでした。
はっきり言ってしまうと、演奏内容を文章化する事、ひいてはその曲について語る事がとんでもなく難しい事を、今更ながらに痛感しています。
音楽を文章として表現する事の限界、と言い換えてもいいでしょう。
これを書き上げる為に今回参考としたのは、

モーツァルト:セレナード第13番ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
(指揮:オトマール・スウィトナー、演奏:シュターツカペレ・ドレスデン)

チャイコフスキー:バレエ音楽「白鳥の湖」(抜粋)
(指揮:ハインツ・レーグナー、演奏:ベルリン放送交響楽団)

ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調『田園』
(指揮:クルト・ザンデルリンク、演奏:バイエルン放送交響楽団)

……以上の演奏です。
何度もそれぞれのCDを聴き直してこの作品を書き上げたのですが、いざ出来上がってみると結局、
「演奏を耳で聴かない事には、この作品は勝負にもならない」

というのが、正直なところです。
そんなわけで、この作品を読んだ皆さんに、厚かましいのを百も承知でちょっとしたお願いがあります。
もしこのみっつの曲がどんな演奏だろうと思ったのでしたら、誰が指揮、演奏したものでも構わないので、CDを買うなりして自分の耳でその演奏を聴き、
作品に書かれている表現が合っているかどうか、確かめて欲しいのです。
現状、この作品を評価するにしても批判するにしても、それが一番の近道ではないかと、筆者は考えている次第です。

さて、この辺りで筆を擱こうと思います。
いずれ、どこかで。
ではでは。