弦楽器が低く、急速に唸りを上げ、指揮者――ヘルベルト・フォーゲルがそれを呼び水として、

オーケストラの全楽器、舞台外の金管に至るまでを激烈に咆哮させる。

第五楽章の幕開けであった。




















その日の事 〜後編〜
耕介と薫の度肝を抜くのに、それは充分過ぎるものだったかもしれない。 もっと分かり易く言えば心臓に悪い大音量、とでも例えればいいだろうか。 二人ともが咆哮の瞬間、同時にびくりと身体を震わせていたからだ。 「……薫、生きてるか?」 あまりに間抜けな質問。 「はぁ……じゃっどん、心臓に、悪かです」 おおまじめなだけに、やっぱり間抜けな答え。 一度速度が落とされると、舞台外のトランペットに次いで舞台上のトロンボーンが、 まるで二人を置いてけぼりにするかのような、淡々とした表情で演奏を続ける。 遠く、近く、舞台上と舞台外で距離感を演出するのだ。 これをホルンがゆったりと次ぎ、いくつもの旋律の層を重ねていく。 やがて、弦楽も加わり緊張した演奏を奏で、また淡々とした速度を取り戻す。 それがしばらく続いた後、今度はトロンボーンを主体とする、決然とした演奏が顔を覗かせた。 これらの部分が代わる代わる扱われてから、低弦の響きにより導入部としての役目を終わらせる。 耕介も薫も、いや、聴いている人の大半には分かりにくいが、この最初の部分で四つあると言われる主要の旋律が、全部顔を出しているのだ。 マーラーは、 「我々は、再び全ての恐ろしい問題に直面する。  そして、第一楽章の終わりの部分に象徴されるような、暗い気分になる」 この序盤の部分に関して述べたという。次いで、 「呼ぶ声が響く。生ける者の終末が来た。最後の審判が近付く。  大地は震え、墓が開き、死者が立ち上がって、行進を始める。  この世の権力者もそうでない者も、王も乞食も関係なく、行進は続く」 こう述べたそうだ。 この部分は、ティンパニの連打で始まった。 それは次第に音量を増し、ついには聴力の限度を超えるところまで叩かれる。 ティンパニの強烈な打撃が二度続いてから、速い速度でオーケストラが演奏を繰り広げる。 導入部における四つの主旋律の内のふたつをあちこちにちりばめた、緊迫した演奏が続く。 一度速度を落とし、舞台外の金管も絡めて密やかな旋律がひとしきり奏でられるが、 再び曲は急速に緊張感をはらんで、一度大きな頂点に達した。 強烈な音は身体の中に響く、というが、耕介も薫も等しくそれを実感していた。 ついていけない位の起伏、演奏の表情の変わりようが、二人を混乱させている。 演奏は次第にそのテンションを落とすと、トランペットが不意に高らかな音を上げ、やがて主役が舞台外の金管に移る。 これに、ピッコロとフルートが絡んで、しばらくは進む事を止めてしまったかのような響きが、ホールを満たし続ける。 これまでの強烈な動きとは、明らかに性格の違う演奏だ。 この部分のマーラーの説明は、こうである。 「啓示のトランペットが叫ぶ。  そして、恐ろしいほどの静寂の中で、死者たちの最後のおののく姿を示すかのように、  ナイチンゲール   小夜鳴鳥 のさえずりが遠くに聞こえる」 つまり、金管の響きは〔死者たちの最後のおののく姿〕であり、ピッコロとフルートは〔小夜鳴鳥のさえずり〕なのだ。 オーケストラの演奏が終わると、ついに合唱が歌い出した。マーラーがここから先を、 「神の栄光、愛の万能の感情による至福への導き」 即ち、第1楽章の問題提起に対する解答と位置付けた部分の始まりである。  Aufersteh'n, ja aufersteh'n   「復活するだろう、そう、汝は復活するだろう」  Wirst du, Mein Staub, nach kurzer Ruh!   「短い静寂の後に!」  Unsterblich Leben, Unsterblich Leben   「永遠の生命を、永遠の生命を」 これにソプラノ歌手――カタリーナ・マイが加わって、  Wird der dich rief dir geben.   「汝を呼ぶ者が与えるだろう」 ゆっくりと、慰めに満ちたかのような表情で続ける。 耕介と薫からは、ゆうひが瞳を閉じて、一心に歌う姿が見て取れた。 ゆうひは、周囲の合唱メンバーの中にあって、瞳を閉じた静謐な表情をして歌っている。 そんなゆうひの歌う様子を見ていた耕介は、何故かつい、場違いな事を一瞬考えた。 (そう言えば、この歌詞ってドイツ語だったな。ゆうひって、ドイツ語の歌詞歌えたっけ?) 耕介がへんてこな事を考えている内にも、曲は進む。 緩やかな間奏の後、合唱は、  Wieder aufzubluch'n wirst du gesat!   「汝の植えた種は、再び花と咲こう!」 この歌詞をゆっくりと二度歌い、  Der Herr der Ernte, Der Herr der Ernte geht   「収穫の主が、収穫の主が来る」 再びソプラノを加えて、  Und sammelt Garben   「そして、束として集めるのだ」  Uns ein die starben.   「我々、死せる者を」 と歌われる。そして、ゆったりとした間奏も再び奏でられていく。 ここまでの歌詞は、フリードリヒ・クロプシュトックという近代ドイツ随一の詩人が書き記した、 同じ標題「復活」という詩から引用したものであり、ここから先は、マーラー本人が作詞をしている。 アルト歌手が、  O glaube, mein Herz, o glaube:   「おお、信ぜよ、我が心よ、信ぜよ」  Es geht dir nichts verloren!   「お前は何も失っていない!」  Dein ist, dein, ja dein, was du gesehnt!   「お前が、お前が、そう、お前が望んだもの!」  Dein, was du geliebt, was du gestritten!   「お前が愛し、争ったもの!」 歌った後を次いで、  O glaube:   「おお、信ぜよ」  Du wardst nicht umsonst geboren!   「お前は無駄に産まれたのではない!」  Hast nicht umsonst gelebt, gelitten!   「無益に生きてきたのではない!」 ソプラノが歌う。そして、今度は男声合唱によって、  Was entstanden ist, das mus vergehen!   「生あるものは、死なねばならない!」  Was vergangen auferstehen!   「死したる者は甦る!」 一層、力強く歌われていく。  Hor' auf zu beben!   「おののくのを止めよ!」 この歌詞が二度繰り返され、  Bereite dich,   「覚悟をせよ」 と高らかに唱えられると、次にアルトも加わって、  Bereite dich zu leben!   「生きる為の覚悟をせよ!」 また高く歌い上げる。 オーケストラの演奏も、いよいよ熱を帯びる。それに呼応するかのように、まずアルトが、  O Schmerz! Du Alldurchdringer!   「おお、苦痛よ! 汝全てを貫くものよ!」  Dir bin ich entrungen!   「私は汝から逃れたのだ!」 と歌い、ソプラノが次いで、  O Tod! Du Allbezwinger!   「おお、死よ! 汝征服者よ!」  Nun bist du bezwingen!   「今、汝こそ征服された!」 高らかに歌う。更にふたりの歌手が追いかけっこをするかのように、  O Tod! Du Allbezwinger!   「おお、死よ! 汝征服者よ!」  Nun bist du bezwingen!   「今、汝こそ征服された!」  Mit Flugeln, die ich mir errungen,   「この勝ち得た翼をもって」  In heisem Liebesstreben   「燃え上がる愛に向かう」 そして共に、こう続ける。  Werd' ich entschweben   「私は舞い上がる」  Zum Licht, zu dem kein Aug' gedrungen!   「はるかな光へと突き進む!」 間を置かず、男声、女声、更に混声、そして歌手も加わり、  Mit Flugeln, die ich mir errungen,   「この勝ち得た翼をもって」  Werd' ich entschweben   「私は舞い上がる」 繰り返しながら高揚し、ついに全てを締めくくる圧倒的なクライマックスが訪れる。  Sterben werd' ich, um zu leben!   「私は、生きる為に死ぬのだ!」  Sterben werd' ich, um zu leben!   「私は、生きる為に死ぬのだ!」  Aufersteh'n, ja aufersteh'n wirst du,   「甦る、そう、お前は甦る」  Mein Herz, in einem Nu!   「我が心、瞬く間に!」  Was du geschlagen,   「お前の打ち勝ったものが」  Was du geschlagen,   「お前の打ち勝ったものが」  Zu Gott, zu Gott, zu Gott wird es dich tragen!   「神の、神の、神の御許にお前を運ぶだろう!」 歌手も含めた全ての合唱が大きく歌い切ると、オーケストラの全てが、そう、舞台上も舞台の外も、 オルガンや鐘、シンバルも含め、そこにある全ての楽器が、怒涛の如くフィナーレを飾る。 風芽丘コンサートホールが、正に〔箱鳴り〕した絶頂の瞬間―― 指揮者が両手を拡げ、寸分の狂いもなくぴたりと演奏を締めくくった。 残響が消えた後、ようやく拍手が上がり、それは瞬く間に聴衆全ての共有するものとなった。誰かが、 「ブラヴォー!!」 と叫ぶと、先程の演奏にも負けぬ程の歓声が、ホール一杯に響き渡る。 そんな中耕介は、曲の放った凄まじいまでの迫力にただただ呆然としていたが、そのままふと薫を見やって驚いた。 薫が、知らぬ内に涙を流している。 耕介は、持って来ていたハンカチを取り出すと、黙って薫の片方の涙を拭き取ってやった。 「あ……す、すいません。耕介さん」 気恥ずかしげに耕介からハンカチを受け取った薫が、涙の筋を拭き取る。 舞台上では、指揮者を始め奏者、歌手、合唱団の全員が、聴衆のスタンディングオベーションを受けていた。 夜のさざなみ寮。 耕介と薫がリビングでお茶を飲んでいる。先程まではゆうひも交えて、演奏会の時の話に興じていた。 「それにしても、何であの時演奏会に出るからって、言ってくれなかったのさ。  ステージにいるのを見た時には、びっくりしたよ」 苦笑する耕介に、ゆうひは、 「やー、ちょっとしたお・茶・目」 などと、煙に巻いていたものだ。 改めて話を聞くと、指揮者と歌手が天神音大の招待で来日していて、 時期がたまたまクラシックフェスタの開催時期と合致した事で、佐伯レコードの側と話がまとまり、 更に演奏には大学の合唱部も参加する事が決まったのだそうな。 そして、ゆうひもこれに加わったという事らしい。 ともあれゆうひは、演奏会でのふたりの歌手に、何かしら得るものがあったと見え、 「合唱もええけど、今度はうちもあの場所に立ちたいわぁ。その為に、今はひたすら練習や」 自らに気合を入れ直していた。 ゆうひが部屋に戻ってからしばらく、薫は静かにお茶をすすっていたが、 「耕介さん」 「うん?」 「うち、あの曲ば聴いてて……前の事、思い出しました」 「前の、事?」 「はい……峠の事ば」 「そう、か……あの時の……」 薫が思い出した事、というのは、かつて薫が退魔師としての仕事で赴いた、とある峠での出来事だった。 事故で命を失ってから、通りかかる車に事故を起こさせていたおさな子達の全ての魂を、 (斬らざるを得なかった) その事が薫を苛み、彼女の精神を崩壊させる一歩手前まで追い込む事となったのは、まだ耕介の記憶にも新しかった。 「うちは、あの曲で歌われた歌詞の全てに、共感はしちょりません。でも……」 耕介は、黙って聞いている。 「上手く言えなかですが……うちは、あの時……うちの信じていたものが、全てなくなったんじゃないか、そう思って」 「うん……」 「でも、本当はそうじゃなかったとです」 薫は、それまでうつむき加減にしていた姿勢を正して耕介を正面きって見つめ、 「うちが望んでいたもの、勝ち得たもの、愛するもの……皆、ここにあっとです」 耕介は、薫のその言葉にうなずいた。と、薫は頬を染めて瞳を潤ませ、 「そいを教えてくれたのは寮のみんな……そして、耕介さんです」 「薫……」 「うち、今日の演奏会……耕介さんと行けて、本当に、良かでした」 「ああ。俺も、薫と行けて、本当に良かった」 耕介が薫の隣に座ると、薫は自然と耕介に寄り添う。 夜空では月が、優しさに満ちた光をほのかに放っていた。 その日の事 〜後編〜 了

後記

さて、ここまでたどり着いた方は何人いる事でしょうか?(マテ)
まぁ、元ネタはゲーム本編内のイベントにあるので、一度確認してみてはいかがでしょうか?
ところでこの作品では、前振りにも書きましたが、マーラーの交響曲第2番「復活」を聴きながら書いています。
参考にしたのは、

●テンシュテット/ロンドン・フィルハーモニー、同合唱団、マティス(ソプラノ)、ゾッフェル(アルト)

●ケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団、同合唱団、ブロイル(ソプラノ)、ブルマイスター(アルト)

主にこのふたつの演奏で、後者はライヴ録音という事です。
前振りで既に、
「曲を聴きながら読んでもらえると……」
なんて書いてますが、出来る事なら是非、そうして下さい。誰が指揮したものでも構わないので。
実際のところそうしてもらわないと
 『 ここで書いた事が果たして的を得ているのかどうか
という部分を確かめる事は絶対に出来ないと思うのです。
かなりむちゃくちゃな注文を出しつつ、そろそろ筆を擱こうと思います。
ではでは。